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| 錦通と桜通の喧騒に挟まれて、静かにたたずむ伝馬橋。 かつて、この橋は美濃街道(美濃路)が通り、堀川で一番賑わっていた橋でである。 | ||||
| 伝馬橋は、 慶長15年(1610)の堀川開削とともに架けられた「堀川七橋」の一つ。 名古屋と美濃を結ぶ美濃街道がとおる橋であった。 美濃路は東海道と中山道を結ぶ脇街道。熱田から名古屋を経て垂井までの道で、幕府の道中奉行が管理していた。大名行列はむろん、朝鮮通信使やお茶壺道中もこの橋を渡っていった。多くの旅人で賑わうこの橋を『尾張名陽図会』は、「往来の貴賎絶間なく賑しき所也」と記している。 この橋から東に約800mゆくと、本町通との十字路「札の辻」で城下の交通のターミナル。旅人たちは伝馬橋まで来るといよいよ名古屋城下に着いたなあと安堵したことであろう。 橋の名は、このあたりが「伝馬町一丁目」であったことから付けられたと記録されている。 また、橋には堀川開削より旧い「慶長七年」(1602)の年号が刻まれた擬宝珠がついていたという記録があり、清洲から移築したのではないかと言われている。 |
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『尾張名陽図会』部分 |
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| この絵は、伝馬橋の南西から城下方向を描いたもの。 大名行列と思われる一団が橋を渡り、名古屋台地上にある碁盤割の市街地への上り坂にさしかかっている。 橋のたもとには町々を仕切る木戸が材木の陰から少し顔を出している。 都心に近いこのあたりの堀川は護岸も石積みで整備され、川岸には舟運や筏での輸送という立地を生かした、材木屋、竹屋・薪屋が多く軒を並べていた。川面にはこれらを運搬してきたのであろうか、簡単な覆いを付けた苫舟がもやわれている。 |
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東から見た伝馬橋 |
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